書き下ろしSS

帝陛下のお世話係〜女官暮らしが幸せすぎて後宮から出られません〜 1

蒼蓮と秀英

ふと窓の外に目をやれば、夜空に浮かぶ大きな月。リュウ家の邸にて、文を書いていた秀英シュインはそっと筆を置き一息ついた。
口をつけることなく放置していた茶器に手を伸ばしたとき、艶やかな花模様を見て自然に苦笑いになる。
凜風リンファをそばに置こうと思う』
主である蒼蓮ソウレンがそう決めたのは、つい数日前のこと。茶器に描かれた月季花げっきかは、一体何の皮肉だろうか。
当然、まだ自分たち以外にこのことを知る者はいないので、この茶器は偶然に過ぎない。けれど、そのおかげで各所への根回しが必要になり、こうして文を書いて書いて書きまくっているときに……となれば諦めに似た笑いが漏れる。
「……苦い」
ぬるくなった茶は、びわの茶葉の苦みが増していた。蒼蓮ソウレンが「濃く淹れると健康にいいらしい」と言って譲ってきた茶葉だ。
最初こそ顔を顰めて飲んでいたものの、今ではこの苦みと独特の香りが存外悪くないと思い始めていた。
二杯目の茶を注いでいると、開けた窓から高い笛の音が聴こえてくる。
ピィと鳴っては、また別の音で吹きなおし、それも違うといった様子で何度も音を探している不器用な音色。弟の飛龍フェイロンが、懸命に吹いているのだとわかる。
(ちっとも上達せぬ……。蒼蓮ソウレン様にコツでも聞いてみようか)
昔、蒼蓮ソウレンがまだ後宮にいた頃に秀英シュインは側近候補としてそばに付けられた。望んだわけではないが、父の命令であってはこちらに拒否権などない。
広い後宮の片隅で、書物を読むか笛を吹くかを繰り返す蒼蓮ソウレンの姿を思い出すと、背格好のみならず随分と頼もしくなったものだと彼は懐かしむ。
十歳、あの頃の蒼蓮ソウレンは誰に対してもそっけない態度だった。そして、秀英シュインに対しても例外でなく、吹いていた笛を下ろすと胡散臭そうな目を向けて言った。
『おまえ、何か失敗でもしてここへ送られたのか?』
開口一番でそう尋ねられ、秀英シュインは呆気に取られて何も答えられなかった。
誰にも望まれない、二番目の皇子。利用されるか排除されるか、そんな未来しか見えない己の元へやってきた側近候補に対し、何か失敗をして左遷されたのだろうと蒼蓮ソウレンが思うのは仕方ない。
秀英シュインが「尚書、柳暁明リュウシャオミンの嫡子でございます」と告げると、露骨に彼の顔が歪んだのも忘れられない。
ところが、意外にも追い返されることはなかった。二人はそれからしばらく、後宮の中でとにかく書物を読むだけの暮らしをしていた。
あるとき、秀英シュインはふと蒼蓮に尋ねた。
『もう、笛は吹かぬのですか?』
出会ったとき、確かそうしていたはず。それが、自分が来てから一度も笛を吹く姿を見ていない。
蒼蓮ソウレンは書物に視線を落としたまま、淡々と答えた。
『吹く必要がなくなった。おまえがいるから』
秀英シュインは、八歳ながら何となく理由を察する。
笛の音は、自分の居場所を誰かに教えるためのものだったのではないだろうか? そして、その人物は秀英シュインがいるうちはやってこない。
もともと、その人物が来られない時間を埋めるために秀英シュインが遣わされているのだから、蒼蓮ソウレンが今笛を吹く理由はないということだ。
『近頃、お忙しいご様子ですね。燈雲トウウン様は』
秀英シュインが自分のことのように淋しげにそう言うと、蒼蓮ソウレンは少しだけ笑った。
いよいよ次期皇帝になるという今、異母弟に構っている時間はないと誰にでもわかる。気軽に、ふらふらやってきていたこれまでがおかしかったのだ。蒼蓮ソウレンは、蜜菓子を手にやってきてはたわいもない話をして帰っていった兄の姿を思い出し、「来ない方がいい」と呟く。
『兄上が帝位に就けば、私は殺されずに済む』
『それは、なぜ?』
『殺傷を好まぬからだ、兄上が』
『えーっと、つまり今はそうではないと? 刺客が来るのですか?』
動揺する秀英シュインに対し、蒼蓮ソウレンはあっさりと告げる。
『もう来ない』
『何を根拠に!?』
説明しないといけないのか、と面倒そうな顔をした蒼蓮ソウレンだったが、しばらく間を空けてぽつりと呟くように言った。
『おまえがいるから』
今ここには、秀英シュインがいる。この場で蒼蓮ソウレンに何かあれば、その責任の一端がリュウ家に向かうのは明白だった。
けれど、五大家筆頭であるリュウ家の機嫌を損ねたい者はいない。それはつまり────
『おまえは私の最高の護衛だ。兄上はそれがわかっていて、右丞相に頼んだのであろう』
『護衛……』
『あぁ、でも何もないとは言い切れぬな。うっかり私が死んだら、それはすまぬ』
『絶対に生きてくださいね!?』
秀英シュインが慌てるのを見て、蒼蓮ソウレンは小さく笑みを浮かべる。愛憎渦巻く敵だらけの後宮で、これほど喜怒哀楽の見える者は初めてだった。
こんなことで、あの柳家の当主が将来務まるのか? と、蒼蓮ソウレン秀英シュインにじとりとした目を向けた。
『これから矯正されるのか……。おまえ、かわいそうな奴だな』
突然の憐みに、秀英シュインはわけがわからず首を傾げる。どう考えても、自分よりこのお方の方が「かわいそう」にふさわしいのではないかと思った。
蒼蓮ソウレン様よりは私の方が幸せかと』
『はっ、言うてくれる』
『事実ですから』
『……おまえは世辞か遠慮を覚えた方がいい』
今思えば、どっちもどっちだとわかるのだが、当時は二人して「自分の方がマシ」だと本気で思っていた。

十四年の月日は長く、先帝が亡くなったことで蒼蓮ソウレンは皇帝代理の地位に就き、紫釉しゆを守るためにすべてを尽くし、己の幸せを顧みることはない。
そんな男が初めて欲したものが、秀英シュインの妹であった。
まだ父には話していないが、果たして二人のことをすんなり受け入れるかどうか。野心家の父は、五大家筆頭として常に正しく、いつも先のことを考えて物事を画策している。
親として凜風リンファの幸せを願わぬわけではないと秀英シュインは知っているが、だからといって国益やリュウ家のためという大義よりも娘を優先するかというと、答えは否だと思う。
そして問題はほかにもあり、妹本人が蒼蓮ソウレンの元へ嫁ぐことをよしとするかどうかも懸念事項である。
(一生、陛下のおそばにいるつもりだろうしな……。果たしてあの頑固者を説得できるかどうか)
腕組みをした秀英シュインはしばらく頭を悩ませていたが、凜風リンファのことは後々何とかしようと早々に諦め、父の攻略に専念することに。
「人に致して人に致されず、か」
何事も相手に惑わされず己が主導権を握れ。書物から学んだことは多いが、何事も相手が動く前に先手を打って流れを作ってしまえとは、よく言ったものだと実感する。
蒼蓮ソウレンのためにも、妹のためにも、しっかりと周囲を固めてしまわねば。
この夜、秀英シュインの部屋から灯りが消えることはなかった。

TOPへ