書き下ろしSS
俺は影の英雄じゃありません! 世界屈指の魔術師?……なにそれ(棒)
いざ、アガルタへ
フィル・サレマバートは、皆が寝始めた頃を見計らいベッドから起き上がった。
物音を立てないようゆっくりとベッドから下り、クローゼットから目立たない外行きの服へと着替える。
どうしてこんな夜に着替え始めているのか?
それは―――
(いざ行かん、娼館《アガルタ》へッ!)
そう、フィル・サレマバート……娼館へ赴こうとしていた。
自由をテーマにした魔術師。自由こそを理想とし、己が欲求に従いながら思うまま行動する。
それこそが魔術師。それでいて、クズや遊び人だと言われる所以であった。
(ミリス様が来てからというもの、娼館には行けなかったからなぁ……)
聖女の接待をほったらかして娼館に行くなど言語道断。現在、サレマバート伯爵領には領主である父親どころか母親すらいない。
弟のザンは論外として、必然的に接待の相手は自分に限られる。
故に行けなかったのだ……娼館に。色欲的欲求に、我慢を強いられてしまった。
(カルアに邪魔されるから行けなかったし、今日こそは……ッ! 今ならメディアもびっくりな脱獄犯さながらの脱出劇を見せてやるぜ!)
屋敷さえ抜け出せば、あとはこっちのものだ。
だからこそ、屋敷を出るまでが最大の難所であり難関。
とはいえ、皆が寝静まり始めた時間帯を見計らって外出しようとしているので、早々見つかることはないだろう。
フィルは煩悩にまみれた闘志を瞳に燃やし、「いざ行かん!」と気合いを入れて部屋の扉を開け―――
「こんばんは、フィル」
……そっと閉めた。
「…………」
ふぅ、さて、窓から行くか。
フィルはゆっくりと踵を返し、反対側まで行って窓枠へと手をかけた。
しかし、それも勢いよく放たれた扉によって阻まれる。
「ねぇ、フィル? どこへ行こうとしてるの?」
姿を現したのは、薄いピンクのネグリジェを纏った赤髪の少女。目を奪われてしまいそうな姿に本来男は興奮するであろうが、フィルはそっと目を逸らした。
表情は綺麗に笑っているものの、ハイライトの消えた瞳がなんとも特徴的であったからだ。
フィルの背中に冷や汗がダバダバと伝う。
「や、やぁカルアさん。ちょっと夜風に当たろうとしただけでござ―――」
「財布を出しなさい」
「…………おっふ」
まるで信じていない言葉に、フィルは涙が出そうであった。
(どうする!? このままじゃ、羽毛よりも軽やかで人体に影響を及ぼしそうな説教を食らうだけで、俺の欲求は解消されない……ッ!)
そもそも、どうしてカルアがここにいるのだろうか? まさか、娼館に行くことがバレてしまったのか?
色々と疑問点はあるが、とりあえずはこの現状の打破が最優先。
どうせお仕置きを受けるなら、自由を得た先でお仕置きを受けたい。このままではただ痛い目に遭いたかったただのドMだ。
(急いで窓枠から飛び越えるか!? いや、冷静に考えろフィル・サレマバート!)
ここで飛び越えようとしても、自身の速さを最優先に研究したカルアの魔術を前に捕まってしまう可能性しかない。
であれば、カルアには申し訳ないがここで相対するしか―――
「言っておくけど、ここで私とフィルが殺り合うのはオススメしないわ」
「な、何故に? ……ははーん、分かっちゃったぞぅ! さては君、俺に勝てないとしっかり理解しているんだな! そりゃそうだよね、仮にも俺は数多の戦場を乗り越えた英雄———」
「屋敷が倒壊するわ」
「…………」
「その修繕費はもちろん、フィルの財布から出るでしょうね」
「くそぅ、八方塞がりっ!」
フィル、今度こそ両手で溢れんばかりの涙を覆う。
魔術師同士が本気で殺り合えば、周囲の影響が凄まじいのは言わずもがな。
ついでに、戦いの衝撃やら音やらで屋敷の人間は起き出すだろう。そこにミリスが含まれて姿を見られようものなら、フィルは娼館に行けなくなってしまう。
つまりは、詰み。
カルアが現れた時点で、すでに自由への片道切符は破られていたのであった。
「すぅー……」
フィルは天井を仰ぐ。
そして—――
「何卒、寛大なご処置を……ッ!」
諦めた。綺麗な土下座を披露し、これから起こるであろうお仕置きを軽減させることを選んだ。
しかし、カルアはそんなフィルを見て誰もが見惚れるような可愛らしい笑みを浮かべる。
「だーめ♪」
「Danm it!」
———こうして、今日もまた平和な夜が始まった。
なお、フィルの両目が悲惨な結果になったのは、とてもとても余談である。