書き下ろしSS

約破棄されたのに元婚約者の結婚式に招待されました。断れないので兄の友人に同行してもらいます。2(完)

育児日記

 その小さく美しい鍵は、古い棚の裏で見つかった。
 ルシアが差し出した鍵を見て、王姉ハルヴァーリアは麗しい目を大きく見開いた。
「それは、お母様の机の鍵ではないかしら」
「机の鍵ですか」
 懐かしそうな義姉の言葉に、ルシアはほっとしながらつぶやいた。
 フィルと結婚したルシアが住んでいるのは、かつて先代王妃が個人で所有していた屋敷だ。王妃が亡くなった後は末子フィルオードが相続しているが、思い出が残りすぎているせいか、屋敷はほとんど手をつけられないまま時間だけが過ぎていた。
 しかし、ルシアとの結婚を機に屋敷は少しずつ変わっている。大きな棚を動かしたのもその一環だった。
「確か、この机の隠し引き出しよ。……ああ、やっぱりそうだったわね」
 かつて王妃が愛用した古風な作りの机は、今もひっそりと屋敷に置かれている。ハルヴァーリアはその机の奥に隠れていた引き出しを鍵を使って開けた。
 中にあったのは日記帳。何冊もある。その中の一番古いものを手に取り、ハルヴァーリアはパラパラと目を通した。
「フィルが生まれてからの日記のようね。私が生まれた頃のものは見たことがあるけれど、お母様は几帳面なようで大雑把な方だったから、日記と言っても毎日ではないのよ。この頃は……完全にフィルの育児日記になっているわね」
 さらにパラリとめくって、やがて日記を閉じた。
「これは、ルシアさんも目を通しておくべきよ。子が生まれたらどんな事態が待っているか、それなりの覚悟が必要だから」
「え? 覚悟ですか?」
「フィルに似ていたら、とても大変ですからね」
 そう言ってハルヴァーリアはちらりとルシアの腹部を見やり、残りの日記も取り出して机の上に並べてしまった。

   ◇◇

『三人目の子が生まれた。名前はフィルオード。
 上の二人に比べると小さく生まれて皆が心配しているけれど、とても大きな声で泣いてくれる。どうか、このまま元気に育ってくれますように』

『フィルがハイハイを始めた。
 自分で動けるのが嬉しいのか、どこまでも動き回る。しかも速い。疲れて途中で眠ってしまうのは可愛らしいけれど、目が離せなくてメイドたちが悲鳴を上げている』

『フィルはもう歩き始めた。
 それにどこへでもよじ登っていく。今まで以上に目が離せなくなった。できるだけ騎士にも見張りを頼まなければ。もっと歩きたいとぐずり始めると、なかなか手に負えない。まだ小さいのに力がとても強いから。……メイドたちを労ってあげましょう』

『フィルはとても元気に育ってくれている。
 あの子を見ていると、いつも新鮮な気分になる。本当によく動く子。いつ見ても走り回っている。上の二人はもう少し大人しかったはずだけれど……気のせいではないわよね?』

『最近のフィルはロスの真似ばかりする。
 歩き方も腕の振り方も本当にそっくりで、メイドたちが必死に笑いを堪えていた。ロスの絵も真似ようとしていたけれど、こちらはとても子供らしい絵にしかならない。あの子にも真似できないことがあったのね!』

『少しもじっとしていないフィルだけれど、最近はロスを真似て文字も覚え始めた。
 あの子らしく元気に跳ね回っている。絵に続いて、字も個性的かもしれない。それはそれで人間味があっていいと思うけれど、王の子として文字の練習は必要だという夫の意見には反対しない』

『今日は初めての歴史の講義があったはずなのに、なぜかフィルの服がボロボロになっていた。護衛の騎士たちもぐったりしている。
 話を聞いてみると、祖王陛下の伝説に刺激を受けたらしい。……騎士たちがあんなに疲れた顔をしているなんて、いったいどういうことかしら』

『フィルの服がまたボロボロになった。これで何日連続だろう。
 今日は騎士たちの制服まで痛んでいた。王宮の中庭を走りまわるせいで、木の枝に引っかけてしまったらしい。ため息が出てしまうけれど、あの子、騎士たちから逃げ続けているのかしら。そんな……まさかね?』

『メイドたちの懇願により、フィルの服は騎士の制服と同じ丈夫な素材の、簡素な形になった。
 地味になったとロスはがっかりしているけれど、ハルはボロボロになるよりましだと満足そうだ。夫は……複雑そうな顔で笑っている。私もあんな顔になっているのかもしれない』

『土まみれになっていない時のフィルは、とてもきれいな子だ。
 そのせいで、丈夫さが取り柄の簡素な服もそれなりに良いものに見えるらしい。貴族たちの間では、似たデザインの子供服がひっそりと流行っている。……いっそのこと、王家の伝統にしてしまおうかしら!』

   ◇◇

「……あれ? 僕はまた長く眠っていたのか。ごめんね、ルシアちゃん。重かっただろう」
 ルシアの膝に頭を乗せて眠っていたフィルが、パチリと目を開けると慌てたように体を起こす。ルシアは日記にしおりを挟んでフィルに表紙を見せた。
「お母様の育児日記を読んでいたから、全然気にならなかったわよ」
「ああ、机の鍵が見つかったと言っていたね。そんなに面白い?」
「面白いというか、歴史を感じるわね。アルくんとリダちゃんの原型はここにあるんだなって」
「歴史? 原型?」
 フィルは古い育児日記を覗き込む。ルシアがもう一度広げてみせると、手を伸ばしてパラパラとめくっていたが、やがて小さく首を傾げた。
「僕が十二歳になってもまだ続いているんだね。これはすでに育児日記ではないな」
「確かに、これはもう普通の日記かもしれないわね」
 ルシアは苦笑する。しかしフィルは、何気なく開いたページの一文に眉を動かした。

   ◇◇

『フィルが騎士になりたいと言い始めた。
 驚きはない。あの子はとても巧みに剣を扱うようになったから。騎士になることは悪いことではないはず。ロスに気兼ねばかりしているよりずっといい。私は応援してあげましょう』

『ついに、フィルが王国軍の騎士になった。
 凛々しい制服がとてもよく似合っている。若いお嬢さんたちは落ち着きを失って騒いでいるけれど、あの子は少しも浮わついていない。訓練が厳しいと笑う顔は楽しそうに見える。とてもいいことだ』

『フィルが友人を連れてきた。
 元気そうな若い騎士たちばかり。ちょっと目を離したら、屋敷のカーテンを切り裂いていた。青い顔で謝ってきたけれど……一体何をしていたのかしら。
 一通り説教した私が部屋を出ると「君たちが悪ノリするから」「お前だって悪ノリしていただろう」「僕は止めたよ」「一番煽っていたのはお前だったぞ」などとコソコソと言い合っていた。
 本当に仲がいい友人ができたのね。カーテンのことは不問にしてあげましょう』

『ハルの長男レイフォールは少し元気な子のようだ。
 若いメイドたちは悲鳴をあげている。でも古株の者たちは、フィルに比べればと笑う余裕がある。そのフィルはレイの子守りを軽々とこなす。「子供はかわいいな」と笑って連れ回す姿に、疲れ切った騎士たちが尊敬の目を向けていた。あの子、こんなことでも騎士たちを惹きつけるのね』

『最近のフィルは王宮に居着かなくなった。
 どこへ行っているのやら。あの子も年頃の男の子。厳しいことは言いたくないけれど、誠実な人間であれとつい叱ってしまう。それをあの子は笑ってはぐらかす。生意気になって……困った子。楽しくない遊びなんてしなければいいのに』

『野心的な貴族たちが、またフィルに話しかけていた。
 笑顔で対応しているけれど、一人になるとあの子は暗い顔でうつむいてしまう。ロスを蔑ろにされるのが悔しいのだろう。王宮の居心地が悪いなら私の屋敷を自由に使っていいと伝え、鍵も渡した。あの屋敷では少しは気が休まるようだ。私とも以前のように話をしてくれるようになった』

『時々フィルはとても穏やかな顔で友人の領地の話をする。
 それでやっと、思っていたより長くあの小さな領地で過ごしている可能性に気が付いた。巧妙に隠していたようだ。他に悟られないように手出しは控えましょう。私にできることは静かに話を聞いてあげること。気を揉む夫をなだめること。それだけだ』

『重臣たちがフィルの結婚問題を話題にした。
 あの子を心配しているようだけれど、夫は笑顔で話を逸らす。せめて二十歳までは自由な時間をあげたいと願うのは私も同じだ。
 でも……フィルにはどんなお嬢さんがいいだろう。優しい子? 元気なお嬢さん? 落ち着いた年上もいいかもしれない。考え始めると気になって仕方がない。夫にはあの子の気持ちが大切だと言われた。確かにそうだ。くつろいでいる時にそれとなく聞いてみましょう。あの子の次の休暇はいつかしら?』

   ◇◇

「……フィルさん?」
 ルシアはそっと声をかける。亡き母の日記の最後のページを読み終えたフィルは、うつむいて額に手を当てていた。
「ずっと気になっていたんだ。普段の母上はとても用心深い人だったのに、あの日は変なことばかり聞いてきて、そわそわと落ち着きがなくて、全てが的外れで、不注意だった。僕のことで気苦労が絶えなくて疲れていたからだと思っていたけど……でも、あの人らしいな」
 銀色の髪の隙間から見える唇が固く引き結ばれる。ルシアはフィルの頭をそっと抱きしめた。決して顔を見ないようにして。
「――母上に、君を会わせたかった」
 フィルはぽつりとつぶやく。ルシアは寝癖の残る銀髪を優しく撫でた。
「私もお会いしたかったわ」
「父上も君を気に入ってくれただろうな。……僕は今、とても幸せなんだ」
 ルシアの体に腕を回しながらささやく声は、わずかに震えている。すり寄ってくる頭をもう一度撫で、それからルシアは小さく笑った。
「昨日の朝は『この世で一番不幸だ!』なんて言っていたわよ?」
「それは、君と離れなければいけなかったからだよ!」
「王宮に行くだけで、夜には帰ってきたのに」
「ルシアちゃんと一緒にいる時間が短すぎるんだ! 君と北部砦に行くことができればいいのになぁ! ……でも、それもしばらくは無理か」
 ため息をついたフィルは少しだけ膨らんだルシアの腹部をそっと撫で、ゆっくりと体を起こした。
 わずかに潤んでいるが、青い目はもう明るい。
「君と離れている瞬間の僕は、この世で最も不幸な男だ。でも、一緒にいる時は最高に幸せだよ。……次に戻ってきた時には、もう僕たちの子は生まれているんだろうな」
 ため息をつき、ルシアの腹部を見て指を折っていく。指が止まるとまたため息をついたが、その顔は柔らかい。
 でもすぐに真剣な表情になって、何かを考え込んでいる。ルシアは首を傾げた。
「フィルさん?」
「……やっぱり北へ行くのは止めようかな。北部砦は僕が一年や二年いなくても、本当は全く問題ない場所だから。そうだよ、あそこに僕は必要ではない。いてもいなくても変わらないなら、行かなくてもいいはずなんだ!」
「また、そんなことを言って……」
 半ば以上本気の言葉に、ルシアは呆れた声をあげつつ笑った。
 と、その時、ノックの音がした。
「アルロード殿下とリダリア殿下がお見えでございます」
 静かに開いた扉から入ってきた執事は、王家の双子の訪問を知らせた。常に冷静な声は、しかしわずかに揺らぎがある。元気すぎる王族の予告なしの襲来に動揺しているようだ。
 ルシアをぎゅっと抱きしめたフィルは、身軽に立ち上がって大きく伸びをした。
「やれやれ。うるさい猿どもがまた来たようだ。ここは遊び場所ではないんだけどね!」
 そう言ってため息をつくが、フィルの顔はもう明るくなっている。
 王家の人々は、身内にとても甘い。
 フィルもそうだ。口ではいろいろ言うものの、とても楽しそうにしている。
 ルシアはこっそり笑いを噛み殺し、すまし顔で立ち上がる。そしてフィルが差し出した腕に手をかけ、双子たちを出迎えるためにゆっくりと歩いて行った。


   ◆◇◆◇◆


 ——それから一年と半年後。
 ルシアは古い育児日記を読み直していた。
 あの日の王姉ハルヴァーリアの言葉の意味をしみじみと理解する。……あらかじめ心構えができていてよかった。今となっては感謝しかない。
 大きな窓の向こうからは、メイドたちの悲鳴や騎士たちの慌てた声が聞こえている。原因は父親似の元気すぎる幼子だ。少し前までは泥まみれになっていた。今度は何を始めたのやら。
 ルシアは複雑な表情で窓の外を見ていたが、ふと手元の古い日記に目を落とした。
「でも、元気なことは……きっといいことよね」
 そっとつぶやいたルシアは、優しく微笑んでいた。

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