書き下ろしSS
逃がした魚は大きかったが釣りあげた魚が大きすぎた件 3
あなたがいれば、どんなことだって
頬をかすめるさわやかな風。流れるように過ぎてゆく緑色の景色。立ち上がる土の匂いは久しぶりで、私は胸いっぱいに大きく息を吸った。
「アイーダ、大丈夫? こわくない?」
前に座って私に身を預けているアイーダがちらりと顔を上げる。
「平気。懐かしいって思っていたところよ」
「私もそう思ってたわ!」
私の大きな声に、アイーダがきゅっと目を細めて笑う。国一番の淑女の無邪気な笑顔に嬉しくなって、私は握っている手綱を大きく振り上げた。
私はアイーダを誘って、馬で遠乗りにやって来たのだ。国王陛下から許可をもらい、王家の森を駆けている。
結婚したらこうして馬に二人乗りするような暇もなくなるだろう。遠乗りに誘った時、アイーダは渋る様子を見せたけれど、私がとっくに二人乗り用の鞍を準備してきたことを知ると笑って頷いてくれた。
「ムーロ王国ではこうして何度も遠乗りに行ったわね」
「あっちは馬に乗るくらいしか遊びがないんだもの。我が家は特にね」
アイーダは私の腕を掴んでいた手を離し、口元を隠して笑った。私が絶対にアイーダを落とさないことを知っているので、彼女はけっこうリラックスして馬に横乗りしている。こんなに信頼してくれているのだと思ったら嬉しくて、大きな声で歌いたくなってきた。
「どうぞ、ミミ。歌っていいわよ」
「えっ、また聞こえちゃった?」
「ええ。でも、姿は見えないけれど、王家の森にはきちんと警備の兵がいるから、おかしな歌はやめたほうがいいわ」
「アイーダったら、私がいつもおかしな歌を歌っているって思っていたのね!」
「そうね。どちらかというと、おかしな歌だと思うわ」
「……歌う気なくなっちゃったわ」
「あら、残念」
アイーダはそう言い、すました顔をしてまっすぐに前を向いた。
私は手綱を緩め、馬をゆっくりと歩かせた。穏やかになった揺れに、アイーダがさらにくつろいだように息を吐いて、私に体重を預けてくる。
「疲れちゃった? アイーダ」
「まさか。私は座っているだけだもの。……今日のような日が来るなんて夢にも思わなかった。そう考えていただけよ」
「確かに王家の森で馬を駆るなんて、そうないことよね」
「違うわよ、ミミ」
アイーダがパッと振り返り、私の瞳を覗き込んだ。何が違うのだろう、と私は瞬いた。
「ムーロ王国でのミミはアンノヴァッツィ家の制服姿だったでしょう。でも、今はほら、ドレスを着ているわ」
私はもう一度、ぱちりと大きく瞬いた。確かに今日の私は、乗馬用のドレスを着ている。だからってそんなに驚くことかしら。
戸惑う私の顔を一睨みしてから、アイーダはくるりと身を翻して前に向き直った。
「私、ずっとミミは本当は男の子なんじゃないかって疑ってたの。だって、そうでしょう。女の子らしいところが全くなかったんだもの」
「う、うーん。それについてはぐうの音も出ないわ」
「そうでしょう。だから、……ドレスを着たミミに馬に乗せてもらうだなんて、想像したこともなかったし、今だって夢なんじゃないかって思うくらいよ」
「そんなに!?」
私が思わずがばっと身を起こすと、アイーダはあわてて私の腕に両手で掴まった。それを見た私は少しだけ冷静になって、手綱を握り直す。
「アイーダは、初めて会った時からずっとお姫様のままね」
馬のゆったりとした歩みに合わせて、アイーダの髪が私の鼻をくすぐる。あまり身長の変わらない彼女の肩に顎を乗せて、私は小声で話した。
「ねえ、アイーダ。がさつな私がそばにいるせいで、きっとあなたは今まで以上にお淑やかでいることを求められてしまうと思うの。それは本当に申し訳なく思っていて……その……」
「……ミミ?」
「そんな毎日がつらくなったら、教えてちょうだい。いつだって、アイーダを連れて逃げてあげる。アイーダが楽に生きられる場所まで、どこまでだって、私が連れ去ってあげるわ」
「ミミ……」
アイーダが、私の額に、こつん、と自分の額をあてる。
「ふふ、大丈夫よ。確かに大国の王家に嫁ぐのは、正直言ってすごくこわいわ。でもね、ミミ。あなたがいれば、どんなつらいことだって頑張れると思うの。これからずっと一緒にいれること、私はとても心強いし、とても嬉しいわ」
「アイーダ! 私もよ!」
「でも、幼馴染の男の子にさらわれて逃げるっていうのも、小説のようで素敵ね」
「えへへ、そんな……ん? ……男の子って私のこと!?」
私が顔を上げると同時に、アイーダも前を向いた。
「あら……」
向こうに見える林の奥に、人影が見えた。木陰で一頭の馬を休ませている、すらりとした二人の男性。金髪がキラキラと輝いていて、すぐに誰だか分かってしまった。
「やだ、もうバレちゃったのね」
「王城の馬を借りたのだもの。当然よ」
白馬の横で、プラチドがこちらに向かって手を振っている。アイーダが小さく手を上げてそれにこたえた。
レナートとプラチドは近道を使い、ガブリエーレと共にそれぞれの馬に乗ってここまでやってきたそうだ。レナートの馬はガブリエーレが連れて帰ったと言っていた。
「じゃあね、ミミちゃん。兄上とごゆっくり」
プラチドは白馬にアイーダを乗せ、どこかへ連れて行ってしまった。アイーダは落ち着いた表情を見せているものの、さっきよりも嬉しそうだ。
「ミミ、どうしたんだ」
レナートが私の顔をのぞきこんだ。その心配そうな空色の瞳にドキリとして、私はあわてて首を横に振る。
「何でもないの。ただ」
「ただ?」
「ただ、私だけのお姫様だったのに、プラチド殿下に取られちゃったな、って……」
言葉にしてみたら、私はますますさみしい気持ちになってしまった。
「では、アイーダ嬢をプラチドから取り返して、ミミの側仕えにしてあげようか。私が言えば、可能だよ」
「やだ、違うの。二人を引き離さないで」
レナートのとんでもない言葉に驚いて、私は彼の腕にしがみついた。レナートがくすくすと笑う。揶揄われたのだ。
「では、私で我慢してくれるかい」
「我慢だなんて! 私は、レ、レレレ、レナートが、いいわ」
「安心したよ」
レナートの手を借りて、馬に乗った。赤くなった頬を隠すように、後ろに乗る彼の腕にしがみついた。先ほどのアイーダのように、私は足を閉じて横乗りしている。ドレスの足元のレースが、ひらひらと風に揺れた。
私をあまり揺らさないように、レナートはゆっくりと馬を走らせてゆく。