書き下ろしSS

と酒を好む英雄は、娶らされた姫に触れられない。

見えない視線

「なんだか最近、妙に視線を感じるんですよ」
 トルナーダ子爵邸の朝、イレーネの私室にて。
 いつものように主の身支度をしていた侍女のマリーが、不意にそんなことを呟いた。
 振り返ることができないイレーネは、視線だけ動かしつつマリーの言葉に応じる。
「あら、そうなの? マリーがそう言うなら、多分そうなのでしょうけど」
 何しろマリーの感覚は鋭く、イレーネもそのおかげで何度も助けられてきた。
 だから、マリーの感覚を疑う、という選択肢はないわけだが。
 それはそれで、首を傾げてしまう。
「でも、最近というのも変な話ね。今更マリーのことをジロジロ見る必要もないでしょうし」
「そうなんですよね~。……別に変なことしたり、恨みを買った覚えもないですし」
 主従二人揃って悩むも、答えは出ない。
 隣国から嫁いできたイレーネと、それに従ってやってきたマリー。
 二人はここトルナーダ家においては外様であり元外敵であったのだから、来た当初であれば疑いの目を向けられたりすることは十分ありえたし、彼女達も覚悟はしていた。
 もっとも、向けられたのは祖国でのそれよりも遙かに温かい眼差しと歓待だったが。
 その後、書類仕事で強さを発揮した二人は更に尊敬や感謝の目も向けられるようになり、暮らしぶりは快適の一言。気さくな人が多く、人間関係も良好だ。
 なのに今更、どういうことなのか。
「……視線を感じる、ということは、誰が見ていたかはわからないの?」
「あ、言われてみればそうですね。視線を感じて振り返っても、誰もこっちを見てなくて」
「それも妙な話ね。こっそりマリーを見てたってことだし」
 子爵領に移って来てからもマリーはイレーネの執務を補佐しており、関わる人間は多い。
 となれば、誰かわからないから思わず見ていた、ということも考えにくいし、話しかけにくかった、ということもそうそうないだろう。
 なのに、マリーをこっそり見ていた、ということは。
「……もしかして、マリーを密かに想ってる人がいる……?」
「え? まっさか~、そんなことありえないですよ~」
 ふとイレーネの脳裏に閃いた考えを、マリーは即座に否定した。
 主に対して不躾な態度ではあるが、イレーネは気にした様子もない。
 幼なじみとも言える二人とあって、人目がない時は気安くしゃべる時も多いのだ。
 だからマリーも忖度せず否定するし、イレーネも普段より砕けた口調になっている。
「ありえないってそんなことないでしょ。マリーは美人なんだし」
「そう言っていただけるのは嬉しいような、姫様に言われるのは複雑なような……。それにほら、私って年も年ですし。殿方好みの女でもないと思うんですよね」
「年って、わたくしとそんなに変わらないじゃない。それに、あっちの殿方好みじゃないっていうだけで、こちらの皆さんからしたらまた違うんじゃない?」
 マリーとイレーネの祖国レーベンバルト王国では、控えめでお淑やか、男性を立てる女性が貴族男性からは求められていた。また、婚姻相手としての女性は若ければ若いほど良いとされている。その方が子供を数多く産めるから、という理由で。
 その辺りの事情はこちら、シュタインフェルト王国も大きくは変わらないのだが……辺境伯領近辺は少々違ってくる。
 というのも、まず辺境伯夫人が女傑と言われる程の女騎士。
 更に辺境伯軍に属する女性騎士・兵士もそれなりの数がおり、お淑やかな女性比率が王都などに比べて有意に低い。
 また、男性騎士・兵士からもそういった女性の方が気安く付き合いやすいため好まれる、なんていうケースも少なくないのだ。
 であれば、美人で有能な働き者であるマリーなど、放っておかれる道理もない、はずである。
「またまたそんな、希望を持たせるようなこと言わないでくださいよ~。そりゃ、もしそんなことがあったら、ちょっと考えちゃいますけど。姫様も無事に暮らしていけそうですし、私もここに腰を落ち着けることになりそうですから」
「……とりあえず、わたくし中心すぎるその考えを改めることから始めた方がよさそうね……?」
 さらっと言われた中に感じる、マリーの行動原理。
 長い付き合いからそれをよくわかっているイレーネは、小さく溜息をついた。

 一方その頃。
「いや~、マジでマリーさん鋭すぎっすよ。何者ですかあの人」
 ガストンの私室で、ファビアンが呆れたように言っていた。
 辺境伯軍で密偵として活動していたこともある彼は、辺境伯から言われガストンの婚姻相手であるイレーネを監視していた。過去形である。
 今はもう、イレーネに野心や帯びた密命などがないことは明白であるため監視の任から解かれてはいるのだが……それでも時折彼女を観察していた。
 正確には、イレーネの近くにいつもいるマリーのことを、だったりするのだが
「お前に気付くって、相当だけどなぁ。でも、あの人が諜報員だとかありえないだろ?」
「言動からすればありえないんすけど。でも、あんだけ鋭いってことはカタギとも思えないし」
 ガストンの問いに、不承不承頷きながらもファビアンの疑念は晴れない。
 まさか、一介の侍女が姫様可愛さのあまりに一流の密偵すら舌を巻く察知能力を手に入れたなど、考えもつかないだろう。というか普通はそこまでしない。そこまでの忠誠心はない。
 だから、ファビアンからすれば不自然にスペックが高いように見えるのだ。それも、普通は侍女に求められないような能力において。
「王女付の侍女だったら、ちょっと変わった特殊技能を持っててもおかしくないんじゃないか?」
「大将、そりゃ戦記ものとか読みすぎですって。少なくとも我が国の王女様に付いてる侍女なんて、やんごとないお家柄のお淑やかなお嬢様ばっかりなんすから」
「お前が言うと説得力があるなぁ」
「まあ、腹の中身は真っ黒、なんてケースは多いですけどね。んでも、所詮はお嬢様方が社交界で生き抜くためのもんだから、斬った張ったに絡むスキルなんて持たないですし」
 と、ファビアンはペラペラしゃべるのだが。
 ガストンから、返事が来ない。
 はて、と思ってファビアンがガストンを見れば、何やら思案顔である。
「大将、どうかしました?」
「いやな、お前にそう言われて思ったんだが……イレーネとマリーにそういうスキルを身につける必要性があったとしたら? その可能性はないか?」
「……あ。それ、は……ない、とは言えないっすね……?」
 ガストンの問いかけに、ファビアンは即答できず。それから、ガシガシと頭をかきむしった。
 スキルを持っているということは、それを持つ理由や身につく環境があったということ。
 イレーネの置かれていた環境を考えれば、想像が付いたはずである。
「うっわ~……ヤバイ、俺めっちゃ恥ずかしいっす。そんなことも気付かないなんて」
「まあ、普通はありえない話だもんなぁ。だけど、仲の悪い王族貴族は家族の間でも殺し合いがあるっていうじゃないか。……そう考えたら、なんかムカついてきたな」
 ファビアンに説明しているうちに、ガストン自身も理解が深まってきたらしい。
 それはつまり、イレーネが日頃から命の危険に曝されていたということでもあって。
 いまやすっかりイレーネに惚れ込んでいるガストンとして、それは看過できぬことであった。
「そう考えると、ほんっとお二人がこっちに来てくれてよかったっすねぇ」
「だよなぁ。二人には幸せになってもらわないと」
「な~に言ってるんすか、奥様は大将が幸せにするんですよ!」
「お、おう……そ、それは、そう、だな……」
 背中をバシバシと叩かれながら、ガストンは言葉に詰まる。
 もちろん幸せにするつもりはあるし、だから教会を建てて神に誓い直しもした。
 だが、改めて言われれば、まだまだ照れもする。
 初心な新婚さんっぷりを見せていたガストンだったが、ふと何かに気付いた顔になった。
「イレーネは俺が幸せにするとして、マリーは誰が幸せにするんだ?」
「へ? あ~……あの人、奥様の側にいるだけで幸せそうっすけどねぇ」
「まあ、そりゃそうなんだが、それも何だか申し訳ない気もするし。それにイレーネの侍女だから、マリーも自分が相手を幸せにするとか思うタイプかもしれんし」
 結婚式でのやり取りや普段の生活を見るに、イレーネはもらうだけでは満足できないタイプ。
 そして、恐らくマリーも。彼女の献身的な働きにはガストンも助けられている。
 そんな彼女が幸せになるなら。
「いっそファビアンくらいの方がいいのか?」
「ちょいちょいちょい、なんすか俺くらいって!」
「だってお前、遊び慣れてるせいか適度な距離感を知ってそうっていうか。押しつけがましいことしなさそうな気がするから、マリーにはちょうどいいかもって」
「いやそんな理由で俺を押しつけられたら、それこそマリーさんが可哀想でしょうが! もうちょい真面目に考えてくれませんかねぇ!?」
 唐突なガストンの思いつきに、ファビアンは思わず声を上げた。
 まさか自分に振られるとは思わなかったからなのだが。
 言われて真面目に考えたガストンは、ぽんと手を打った。
「お前が結婚相手なら、マリーがよそに嫁に行かないからイレーネにもいいな」
「実利で考えすぎぃ! やべ、そんな話したら、大将と奥様の子供の世話ができるとかマリーさんだったら考えかねない!」
「お、おい、俺とイレーネの子供とか、そんな、気が早いだろ……?」
「何照れてんすか今更ぁ!」
 思わぬ方向に話が飛び、赤くなりながらもデレデレとした顔になるガストン。
 変われば変わるものだと嬉しくなりもするが、しかしそれとこれは別である。
「そもそもですねぇ、マリーさんの気持ちってもんもあるでしょうが!」
「まあ、それが一番大事か。……うん? てことは、お前はそんな嫌でもないのか?」
「へ? ……い、いやまあ、嫌ではないっすけども。って、なんかまた話がおかしくなりそうな予感が!」
 ガストンの問いに、一瞬詰まり。ファビアンは何かを誤魔化すかのように声を上げた。
 言われて考えてみれば、確かに嫌ではない。
 だが、ちょっと短絡的すぎではないかと、その考えを頭から追いやった。
 追いやったのだが。

 その日から、マリーが視線を感じる回数が増えたのはここだけの話である。

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