書き下ろしSS
転生者の私は〝推し活〟するため聖女になりました!1
夜明けのコーヒー
ドアの開く音。
そっと階段を下りていく音。
(……またか)
俺は自分の部屋で一人、その音を聞く。これが初めてのことではない。
イリステラと名乗った新人の聖女と結婚したのは、つい最近のことだ。
朗らかに笑い俺を恩人と呼び、死神部隊と恐れられる第五部隊の隊員たちにかつて命を救われた神官だと感謝を伝え、一生懸命打ち解けようとする。
常に笑顔で俺たちに尽くすその姿に、絆されていると正直自覚はしている。
だからといって出会って即結婚に至った俺と彼女の間で愛を育まれるなんてことはなく、また、今は落ち着いているとはいえ戦時下であることから俺たちの関係は夫婦と呼ぶよりは同居人と言った方が正しい状態だ。
(……戻ってこないな)
飲食は共にするが、同居人であることを考えれば寝室は当然、別だ。
とはいえ俺はオオカミの獣性を持っているため、感覚が他の人間よりは鋭い。
だから、知っている。
いつも笑って過ごすイリステラが、しょっちゅう夜中に魘(うな)されては目を覚ましていることを。
(苦しげな息、いつも小さな悲鳴と共に飛び上がるような物音、大きなため息……)
今日も、また。
そして決まってそんな日は、夜明けが遠い時間から一人でぼんやり、水を飲んでいることを知っている。冷えるだろうにと思って、小さなため息が漏れた。
おそらく、茶やコーヒーを飲むのに火を使えば音が出るからと、俺に気を遣ってのことなのだろう。彼女は、常に……自惚れではなく、俺に対して親切だから。
寝転がったまま、俺は自分の拳を額に当てる。
(……誰もが、通る道だ)
戦場を経験した兵士には少なくない事象。
それこそ、被害に遭った町に住んでいた一般市民だって悪夢を見る。
思い出したくもない記憶から、生き残った自分たちへの怨嗟の声のようなものを感じて……勝手に捏造して、咎められた気分になる夢を見るのだ。
俺だってそうだ。
今もまだ、見る。
それでも、もういつからかわからないが夢を見たところで『またか』と思うだけになったし、そのうち俺も地獄に堕ちるのだから大人しく待っていろと図太く思えるようにもなっていた。
目が覚めて苦しい思いをすることも、罪の意識に苛まれることも、泣きたくなる気持ちも。
何もかもに目を伏せて、もう一度深い眠りに就けるくらいにまで、慣れてしまった。
ただ感覚が鈍くなっているのかもしれないが、どうでも良かった。
「……くそ」
自分はいい。暗闇の中で顔もわからない連中に足を取られようが、早く地獄に堕ちてこいと囁かれようが、それが俺の罪だと自覚しているからこそ受け入れられる。
けれど、他者の声は、生きている人間の声は、別だ。
いいや、彼女の声は別なのだ。
第五部隊の連中と共に過ごす宿舎の中で、やはり同じように悪夢に苦しむやつはいる。
それでもそのうち自分と同じように慣れていくだろうと、哀れに思うことはあっても手助けしてやりたいなんて気持ちになったことはない。
だれがどう手を差し伸べようと、俺たちのこの感情は、悪夢は、どうしようもできないからだ。早く慣れればいいなと思うだけだ。
それでも。
それでも、だ。
「くそっ」
押し殺すように泣く声を、謝ることもせずただ呑み込むように泣くあの声を、そしてどうしようもないその感情に一人で静かに夜が明けることを待っているであろうイリステラの姿を想像すると、どうしようもない気持ちになる。
日中の、朗らかに俺を慕う姿を知っているから余計に。
(俺とあいつは夫婦だ、だから)
けれどそれは見せかけの関係で、助け合うためだけの……。
ベッドから身を起こす。
静かに階下へ行けば、目当ての姿がある。
やはりイリステラはぼんやりと手にグラスを持ったまま窓の外を見ていた。
「イリステラ」
「えっ、あっ、アドルフさん!? やだ、起こしちゃいましたか? すみません!」
比較的小声ではあるものの慌てたように笑みを浮かべ謝罪してくる姿は、いつもの彼女だ。
だがやはりその目元は少し赤く、気落ちしているように見えた。
小さなカンテラに火を点しているだけで、まだ夜の帳が上がる時刻ではその頼りない灯りだけが頼りだ。
そしてそのささやかな光に照らされたイリステラは、いつもよりずっと小柄で、儚げに見える。いいや、彼女は実際に華奢だと知っている。
それが、俺の心を落ち着かなくさせるのだ。
俺たちみたいな兵士に触れられたらそれだけで折れてしまいそうな小柄な彼女が、誰よりも元気に跳ね回って笑って、俺たちに向けて全身で好意を示してくれる……そんな、光のような彼女が泣いている、この目の前のことにどうしようもない気分になる。
(どうしてだろうな)
夜明けと共に消えてしまうあの悪夢のように、彼女もまた消えてしまったらと思うと……いても立ってもいられなかった。
「アドルフさん?」
「……隈が酷い」
「エッ、ひぇ……」
触れようと思ったわけじゃない。わざとじゃない。
ただ近くに歩み寄って見た彼女は暗闇に薄明かりのせいで顔色が悪く見えて心配になっただけで、確認しようと思って目をこらしたらそこに隈があっただけで。
だから、気がつかないうちに彼女の頬に触れて、その目の下にある隈を親指でなぞってしまっただけで。
(……柔らかいな)
俺が突然触れたせいでイリステラは動揺したらしく、顔をさっと朱に染めた。
それがなんとなしにいい気分で、俺は自分の口元が緩むのを感じて慌てて引き結ぶ。
幸い、自分のことに手いっぱいな彼女には気がつかれなかったようだ。ホッとした。
ふと窓を見ると、少しだけ空が白む様子が見えた。
「コーヒーを淹れるか。冷えている」
「あっ、じゃあ私が……!」
「俺がやるから座っていろ」
「は、はい……!!」
少し言い方が強かっただろうか。そんなつもりはなかったが。
あまりそういったことに気を遣ってこなかったので、どうしてそんなことを考えるのか自分でもおかしな気持ちになる。少しだけ気になって様子を窺ったところ、イリステラは大人しく座って嬉しそうに微笑んでいたので、まあいいかと思う。
(笑ってくれたなら、それで)
何が嬉しくて笑っているのかはわからないが、彼女の考えていることなんて最初からわかるはずがないのだ。
少なくとも一人きり、こんな暗がりで寂しそうな表情を浮かべさせないで済んだことに満足感を覚えて俺はヤカンを火にかけた。
別に何かを喋るわけでもない。
沈黙だけがそこにはあるが、それも嫌な気持ちにはならなかった。
「……ほら、熱いから気をつけろ」
「ありがとうございます!」
いつものように、元気な返事。
だけれど少しだけ夜明け前ということで控えめな声が応じるのを心地よく思う。
隣に彼女がいることに慣れてしまった。
いつか離れる時が来たら、寂しさを覚えて……そしてまた慣れるのだろうか。
少しだけ胸が痛んだ気がするが、俺はそれに気がつかないふりをする。
らしくないと自分でも思うからだ。
「美味しいです」
嬉しそうにはにかむイリステラに、俺はなんと応えただろうか。
自分でもわからないまま、その笑みを見つめていたと思う。
「アドルフさん?」
「……いや。それを飲んだら、もう少しだけ寝るといい」
「はい、そうします!」
笑った彼女から空になったコーヒーカップを受け取って、俺は立ち上がる。
どことなく名残惜しそうな目を向けてくるイリステラに素知らぬふりでカップを洗い始めれば、彼女は諦めたのか「おやすみなさい」と小さく言って、自分の部屋へと足を向けたようだった。
きぃ、パタン。
先ほどと同じように彼女の部屋のドアの音が聞こえて、俺は大きなため息を吐き出してその場にしゃがみ込む。
(名残惜しいと思ったのは、どっちだ)
もう一度寝るのは難しそうだ。自分の顔を片手で覆ってため息を吐く。
我ながら、情けないため息だ。
夜明けの光が、窓から差し込んでくるのを苦々しく思うのだった。