書き下ろしSS

爵家のいたって平和ないつもの食卓~堅物侯爵は後妻に事細かに指示をする~

侯爵家のいたって穏やかな暖かい朝食

 山吹色のスクランブルエッグには真っ赤なケチャップがかかっている。カリカリに焼いたベーコンは端の脂が香ばしく焦げていた。食卓の上にはできたての朝食が一気に並んでいる。木製のサラダボウルには大きめに千切ったサニーレタスがあふれる程にたっぷり入っていて、あとはオニオンスライスと茹でたアスパラガス。アルノーとアンネリーエのサラダには蒸した豆、ミヒャエルのにはコーンがちりばめられている。
 今朝も侯爵家の家庭菜園は大豊作だったようだ。
 ふんだんにバターを使ったパリパリのクロワッサンにミヒャエルがかぶりついた。ざく、と乾いた音がする。口の周りをクロワッサンの皮まみれにしたまま、ミヒャエルは二口目を食べた。テーブルクロスにクロワッサンのかけらがぽろぽろと落ちる。
「ミヒャエル様にはバターロールの方が良かったかしら」
 ニコニコと微笑みながらそう言ったアンネリーエの口の横にも、クロワッサンの皮のかけらがぴたりとくっついている。無表情のアルノーが自分の口元をちょいちょいと指さしているのを見て、アンネリーエが照れ笑いしながらナプキンで口を拭った。
「アルノー様、デザートも食べてくださいね」
 食事を終え、先に席を立とうとしていたアルノーが一瞬きょとんとした後に座り直す。
「デザートとは、このぶどうのことか」
 アルノーは視線の先にある小皿をじっと見つめた。小皿の上には、淡い黄緑色のぶどうが数粒盛られている。粒は大きいものと小さいものが入りまじり、揃っていない。
「私の実家で採れたものです。庭と言うか、裏山と言った方がいいようなところですけど。子供の頃から私はそこでよく遊んでいたんです。私がこのぶどうを食べるのを毎年楽しみにしていたので、昨日、兄が王都への買い物ついでに届けてくれました。売っているぶどうほどは甘くないのですけれど、是非どうぞご賞味ください」
 アンネリーエはそう言うと、隣に座るミヒャエルに「ね?」と微笑みかけた。ミヒャエルが大きく頷き返す。
「とってもすっぱくってびっくりしちゃうよ! 早く食べて、ちちうえ」
「あっ! ミヒャエル様、それ言っちゃだめ!」
「あー! ごめんなさい、言っちゃった。えへへ」
 アンネリーエとミヒャエルが楽しそうに笑い合っている。まんまと一杯食わされるところだったアルノーが憮然とした表情で二人を眺めた。
「そうか、酸っぱいのか。しかし、君は好んで食べていたのだろう?」
「ええ。それはもう、この甘酸っぱさがくせになるんです」
 アンネリーエはそう言って、ポイ、ポイ、とぶどうを二粒口に放り込んだ。きゅっと一度だけ口をすぼめたものの、もぐもぐと噛みしめて美味しそうに味わっている。
 それを見たアルノーが小さな一粒を摘まみ上げる。ランプの灯りにかざし、目を細め、覚悟を決めたように口に入れた。
「……うっ」
 手で口を押えてうつむいたアルノーと、目を見開いて笑いをこらえるアンネリーエ、そして、満面の笑みを浮かべるミヒャエル。
 ゲホゲホ、と咳をするアルノーの前に、メイド長がぬるい紅茶を置いた。
「うふふ。男性はどうして酸っぱいものが苦手なんでしょうね。父も兄も、このぶどうは食べませんでした。美味しいんですけどねえ」
 アンネリーエはそう言い、またぶどうを一粒口に含んだ。アルノーが涙目でこちらをじろりと睨んでいる。いつも澄ました顔で落ち着き払っている彼のこんな表情はめずらしいし、ちょっと可愛い。アンネリーエはにまにまと頬が持ち上がってしまうのを手で押さえてごまかした。
 せっかく淹れてもらった紅茶には手をつけずに、アルノーはグラスに入った水をがぶがぶと飲んでいる。その端正な横顔を見て、アンネリーエはピンと来た。
「アルノー様はワインはお好きですか?」
「え?」
 グラスを持ったままのアルノーが少しだけ眉根を寄せた。そして、すぐに口を開く。
「いや、私はあまり飲まない。夜会などの付き合いで嗜む程度で、家では飲まない。贈答品は礼儀として口をつけるが、それはただの義務であって日常的に飲むことはない」
 一気にそう言った後、アルノーは力強くグラスを食卓に置いた。
「よって、君はワインを作る必要はない」
「そのようですね」
 アンネリーエは素直に頷いた。なぜかアルノーはほっとした表情を浮かべている。
「……君はワインが好きなのか?」
 そう問われ、アンネリーエは首を横に振る。
「好きとか嫌いとか思うほど飲んだことがあまりありません。それこそ夜会などで少し口にした程度ですし、夜会にもあまり行ったことがないので……」
「いや。もし君が家でワインを飲みたいと言うのなら、それは止めない。飲みすぎるのは良くないが、成人しているのだから、私がそれを咎めることはない。飲みたいのなら、料理長や家令たちと相談して良いものを購入しなさい。ただ、私は飲まない。だから、君は自分のことだけ考えたらいい」
「うふふ、ありがとうございます。でも、そこまでして飲みたいとは思いませんわ」
「そうか」
 アルノーはそう言い、視線を逸らした。
 騙されそうになった上に、結局酸っぱいぶどうを食べさせられたというのに、最後にはやっぱり君の好きにしていい、と言ってくれるアルノーの優しさに、アンネリーエは胸が熱くなった。
「では、ワインではなく、ぶどうのジャムでも作りましょうか。お砂糖をたくさん入れて」
 アンネリーエの声にミヒャエルも微笑む。
「やっぱりワインを作ろうとしていたのか」
「ええ、もちろん」
「もちろん……。そもそもだが、いや、特に私も詳しいわけではないが、ぶどうなら何でもワインになるわけではないと思うぞ。特にこの酸っぱいぶどうは向いていないと思う」
 ぶどうの載った皿をアルノーが見下ろす。つられてアンネリーエも皿を見つめた。
「まあ、そうなのですね。うーん、じゃあやっぱりジャムがいいかもしれませんね」
「そうしてくれ」
 アルノーがぬるい紅茶を一気にあおった。アンネリーエもミルクティーに手を伸ばす。
「小麦粉は挽きたてのものがありますから、ぶどうジャムのクッキーがいいかしら」
「ひ、挽きたて、とは。いつの間に……」
「シンプルに紅茶に入れるだけでも美味しいかもしれませんね。ちょうどできたての茶葉もあることですし」
「できたての茶葉……? うちの食糧庫はいったいどうなっているんだ」
 アルノーが空になったティーカップを見つめる。
 アルノーには言っていないが、侯爵家の食糧庫には苺のジャムもトマトのジャムもある。干し野菜だってたっぷりあるし、日当たりの良い庭では取れたてのキノコを干しているところだ。その全てがアンネリーエのお手製のものなのである。
 ミヒャエルがさっきからしがんでいるカリカリのベーコンもそうだ。何度か失敗をして、やっとうまく燻製にすることができた力作だ。何も言わずにぺろりと食べてくれたところを見ると、アルノーの口に合ったようなので内心では小躍りしている。
 何なら、目玉焼きが載っている皿だってそうだ。色付けだってした。ひっくり返せば、皿の裏にはアンネリーエのサインが入っている。
 この侯爵家の至る所にはアンネリーエが原材料からこだわり、自ら作ったものが置かれている。現在は、カーテンを織っているところだ。縫って、ではない。織っているのだ。
 大切なアルノーには美味しいものを食べ、健康で心穏やかな日々を送ってほしいと思っている。そのために、アンネリーエはどんな手間だって厭うことはない。
 いつだってアンネリーエに優しくしてくれるアルノーに、アンネリーエは全力でこたえたいと思っている。
「あら、そろそろお時間ですね。アルノー様」
 アンネリーエの声に、アルノーがハッとして立ち上がる。
「君たちはゆっくりと食べているといい。私は先に失礼する」
 アルノーはそう言うと、足早にダイニングルームを出て行った。が、すぐに戻ってくる。
「すまない。そのぶどうを二粒ほど包んでくれないか」
 先ほど食べたぶどうの皿を指さし、アルノーがメイド長にそう頼んだ。メイド長が不思議そうな顔をしながらも頷く。
「アルノー様、そのぶどう気に入ったんですか? 職場でのおやつにするならもっと形の良いものを」
 アンネリーエが嬉しそうに席を立つ。アルノーはそれを手で制した。
「いや、違う。ライナーに食べさせようと思っただけだ。家を出る時に持ってきてくれ」
 そう言って、今度こそ部屋を出て行った。
「ライナー様に、ぶどうを」
 アンネリーエはそうつぶやくと、あわてて座り直してクロワッサンを口に詰め込んだ。ミヒャエルもサラダを掻っ込み始める。
 アンネリーエとミヒャエルが急いで朝食を終えた頃、アルノーの側近であるライナーが迎えに来た。
 玄関に向かうアルノーをアンネリーエとミヒャエルが追う。
「おはようございます! ライナー様!」
 アンネリーエの元気な挨拶にライナーが満面の笑みを浮かべる。
 全力で駆けて来たミヒャエルが両腕を伸ばす。その小さな手の中には白いナプキンに包まれたぶどうの粒があった。
「ライナー! これあげる! 食べて!」
 キラキラと澄んだ瞳で見つめてくるミヒャエル。
 アンネリーエはいつ会っても明るい笑みを浮かべている。ミヒャエルの傍らにしゃがみ込むとその肩に手を置いて朗らかにライナーを見上げていた。
 そんな二人に目を細めつつ、家令から鞄を受け取るアルノー。愛想の悪さは相変わらずだけど、以前と比べてとても健康的になった。
 侯爵家の安寧を心から祝福したライナーは、ミヒャエルの手から大粒のぶどうを受け取るのだった。

TOPへ