書き下ろしSS

生者の私は〝推し活〟するため聖女になりました! 2

その狼は春を夢見る

「……ん」
 ふとした瞬間に、目が覚めた。
 何やら外が騒がしい。
 辺りは暗闇に包まれており、男はまだ時刻が夜であることに小さな吐息を漏らした。
 様子を見るためにベッドから離れ、窓際に寄ればすぐに状況を察することができて、アドルフはそっと瞬きをした。
 どうやらで深酒をした男が酔っ払って何か大声を上げ、それに対して近隣の住人が苦情を言ったことで喧嘩に発展したらしく、彼は苦笑を漏らすしかない。
 狼の獣性をその身に宿すアドルフは、音に敏感な方だった。
 戦時中はその能力のおかげで幾度も命を救われたこともあったし、味方の役に立ったこともある。
 だが戦争の終わった今ではこうして時折夜中に起こされることがあるので、それが少しばかり厄介だと彼は思うのだ。
(……それもこれも、平和になったからだからこその悩み、か)
 贅沢な悩みだとかつての戦友たちは笑うだろうか。それとも恨むだろうか。
 脳裏にそんな彼らの姿が朧気に浮かんで、消えた。
 そんなことを考えている間に外で騒いでいた者たちも、いつの間にやらやってきていた巡回の警備兵に叱られて去って行ったようだ。
 特に問題もなかったなとアドルフは踵を返し、ベッドに戻る。
 そこではもぞもぞと隣の温もりを探すように掛け布団の中から手が伸びて彷徨っては小さな唸り声を上げるイリステラがいて、アドルフは思わず笑みを浮かべた。
 一緒に眠るようになって知ったことであったが、妻であるイリステラは存外寒がりだ。
 アドルフがその身を彼女の隣に滑り込ませれば、当たり前のように彼女はアドルフの腕の中に擦り寄ってくる。
 そんな妻の姿に、アドルフは満足そうな笑みを浮かべてそっと抱きしめた。
 寝ぼけているのか、まだ夢の中なのか。
 髪に口づけを落とすと、むにゃむにゃとイリステラが満足げな笑みを浮かべ、アドルフはたまらなく愛しさを感じた。
(……いつか軍を辞したら、北方に移住するのもいいな)
 そうしたら寒がりの彼女は、いつだって彼にこうして抱きついてくれるだろうから。
 アドルフは他人の体温などわからないが、少なくともイリステラよりは温かいのだろう。
 肌寒い季節だからこうして縋ってくれる彼女からは自分の匂いしかしなくて、とても安心することができる。
 だが暑い季節になれば彼女がこうしてくっついて寝てくれるかはわからない。
 それを考えると、北方に移り住むことがとても魅力的に思えたのだ。
 とはいえ、軍の重鎮として扱われるようになってしまったアドルフもそう簡単に軍を辞めて引っ越そうなんて短絡的なことを考えているわけではない。
 もしそういう未来があるならば、程度のものだ。
 それだって有望な部下の誰かに獣神部隊の隊長職を引き継ぐ準備をして、無事にそれを見届けてからの話になるのだからいつになるかなんて彼にもわからない。
 それに、アドルフは自分が戦うことしか知らないことを自覚していた。
 戦争も終わっている今、彼が他にできる職は思い浮かばず、生活するためには稼がなければならないという現実がある以上その夢はあまりにも儚い。
「あどるふさん……?」
「どうした、イリステラ。……まだ夜中だ、寝ていていい」
「あどるふさんは、ねないの……?」
 寝ぼけているのか舌っ足らずなその声にアドルフは目を細める。
 いつだってアドルフのことを一番に想ってくれる妻を、これ以上ないほど独占してもまだ足りない。
 そんな己の欲に呆れつつも彼はイリステラを安心させるようにその髪を撫でて額に口づける。
「寝るさ。お前を抱いていたら眠れる」
「……へへ」
 嬉しそうに笑う妻を見て、アドルフは幸せを噛みしめる。
 こんな穏やかな日が、いつまでも続けばいい。いいや、続かせるためにもやはりまだまだしっかりと治安維持のために働かなければならない。
 幸いにもアドルフにはそれに尽力するだけの武力は備わっているのだし、妻が安心して暮らせるようになるのであれば仕事にも身が入ろうというものだ。
(……そうだな、いつか役割を終えて移住をするのだとしたら)
 アドルフはそんなことを思い浮かべながらそっと目を閉じる。
 いつの間にか寝入っていたイリステラの寝息に耳を傾けながら、彼もまた微睡み始めた。
(どうせ移住するなら、暖かい南がいいな。イリステラが寒い思いをしない方が、大事だ)
 艶やかな花に囲まれるような、春の陽気のような土地はないものか。
 そんなことをうつらうつらと考えながら、アドルフもまた夢の中へと旅立つのだった。

TOPへ