書き下ろしSS

却聖女 1

マリヴェルとエーレの、たのしい潜伏期間 おやすみ編

小さな物音で目を覚ます。身体は動かさず、視線だけで状況を確認する。
目の前にあるのは、かつて何かだった襤褸きれで、かつて何かだった棒きれで、かつて何かだった鉄くずで、かつて何かだった土塊で、かつて何かだった肉塊で。
それらが積み重なりできあがった山で、スラムの空は高く狭い。
神殿を叩き出されて、もう一ヶ月近く経つ。
今日は月が強いので、夜の帳が下りて久しい時間でも随分明るい。遠くでは叫び声とも怒鳴り声ともつかぬ音が上がる。視線を向ければ、西の方角で何やら火の手が上がっていた。ゴミ山が燃えたか、燃やされたか。何にせよ、こっちは静かなものだ。
周囲に生き物の気配がないことを確認し、そろりと身を起こす。足に当たった缶が僅かに移動する。ものが積み重なった地面はでこぼこで、缶自体も滑らかな部分などほとんど残っていない歪な形のため、転がっていかないのだ。おかげで大きな音を立てず済んだ。
目と耳と臭いで周囲の状況を確認し、音の在処を探る。食料を探すのは腐敗していく山の中。とにかく腐敗臭と虫が漂う山とは違い、ここは鉄と油とすえた臭いがする。
ふいに風が吹いた。同時に、山と積まれたゴミがあおられて揺れる。割れた瓶と歪んだ缶がぶつかりあい、小さく澄んだ音を立てた。もう少し風が強ければ転がり落ちただろうが、そこまでの強さはなかったようだ。
音の原因が分かると同時に、くあっと欠伸する。生も死もごちゃ混ぜになっているスラムであっても、多少は分かれているものがある。
そのうちの一つがゴミだ。すべてゴミであることに違いはないのだが、私が寝床に使っているのは生ものがあまりない山の一角だ。生ものとは違い腐敗しないため、溶け合い重なり合わない山には空間が多い。場所によっては崩れてそのまま生き埋めになるが、場所をうまく見極め、柱となる何かを差し込めば、ちょっとした要塞に近しい寝床となるのである。
そうはいっても、数多の生き埋めが発生した場所でもあるので、ここを寝床にするのは古参以外いない。正確には、古参と新参ものだ。新参ものは、生きて逃げ出すか、死んで潰えるかのどちらかで、わりとすぐにいなくなる。
寝ている間に引っかけたらしい真新しい傷ができた手で、ぼりぼり肩を掻く。なんか爛れた。栄養不足か、変なもの触ったか、傷が膿んだか。まあそのどれかだろうともう一回欠伸をしながら、狭く汚れた空を見上げる。
柔く、温く、穏やかで。お堅く、凛とし、騒がしく。
どんな奇跡が積み重なれば、そんな明日が今日となり、当たり前の昨日になったのだろう。奇跡は泡が弾けるように消え失せたくせに、泡とは違い私は消えたりしない。何もかもをなくした無惨な残骸として残り続けている。
すんっと鼻を鳴らす。水のにおいがしない。
スラムは、水が豊富なアデウス国において唯一といっていいほど水の恩恵を受けない地区だ。神殿内では朝から晩まで水のにおいに満たされていたのに、ここでは水溜まりすら泥とゴミと肉に埋もれてすぐになくなってしまう。
襤褸きれや新聞紙を敷き詰めて作った寝床に潜り直す。かろうじて怪我を増やさないための措置であって、そこに快適さなどは存在しない。
寝転がり、目蓋を閉じる。跳ねるような寝台も、包み込むような柔らかな布団も、太陽を吸い込んだ水の香りも惜しくない。ゴミとなって眠ることはつらくもなんともない。
ただ、この身を名で呼んだ人達がどこにもいない事実だけが酷く寒い。冬でもないのに、眠ったら二度と目覚めなくなるのではないかと思ってしまう。
しかしどれだけ寒くても眠らなくては生きていけないので、無理矢理意識を落とす。この作業も慣れたものだ。微かな物音で目を覚ます小刻みな眠りに、再び落ちていく。

小さな物音で目を覚ます。身体は動かさず、視線だけで状況を確認しようとして、異常に気付く。どうやら熱を出したらしい。
私の身体を支えているのは、掻き集めた襤褸きれを突き破ってくる廃材ではない。身体に巻きついているのは新聞紙ではなく雲のように軽く柔らかな布団だ。
視線の先には狭く汚れた空が見えない。むしろ空がない。天井だ。周囲には壁がある。雨風を心配する必要もなければ、崩れてくる危険性も孕んでいない、建築物としてきちんと基準を満たした壁と天井が私を囲んでいる。
厚いカーテンが閉まっていて時間は分からないが、今はきっと夜だろう。薄暗い部屋の中だけでなく、どこもかしこも静寂が満ちている。
ああ、そうか。エーレに拾われたんだと思い出した。ここは腐敗物が集まるゴミ山ではないし、腐敗物以外が集まるゴミ山でもないし、淀んだ水が死んでいく場所でもない。
ここは王都内に構えられたエーレの家だ。本のための家とも呼べる。何せ、寝所であるここも、ここに至るまでの道も、あちこちが本で埋もれているのだ。
すんっと鼻を鳴らす。紙とインクと香のにおいがする。そして、微かに香る水のにおい。
視線を向ければ、水が入った器を抱えたエーレが部屋に入ってきたところだった。ぼんやり眺める私に気付くと、舌打ちした。そんな殺生な。
「寝ろ。起きるな」
「いや……起きてもよくないですか?」
目覚めたからか、安堵したからか。先程まで感じていた寒さは少し和らいだ。すると今度は身体の節々が熱く感じる。特に、頭と首回りが熱い。なんのことはない。発熱である。
枕元に置かれていた水差しから注がれた水を渡され、中途半端に起こした体勢で飲みきり、元の体勢に戻った。
それを確認した後、水に浸した手拭いを絞りながらエーレはめんどくさそうな顔になった。
「お前、起きていたら一所でじっとしないだろう」
「他に用事もないですし、回復に専念する予定ですが」
「用事があれば脱走するということだな。ちなみに、脱走したら燃やす」
「えぇー……」
今は流石に体力も気力もないので大人しくしているつもりだが、日々の行いのおかげで信用が欠片もない。今の私に、それらを押してまで出かける用事がどこにあるというのだ。今の私に、何が残っているというのだろう。
「少し黙ってろ。俺は炎関連以外は得意じゃないんだ」
真剣に手元を見ているから何をしているのかと思えば、先程絞った手拭いを冷やしているらしい。特に言いたいことも考えることもなく、エーレが手拭いを冷やす様を眺める。
炎関連以外得意じゃないと言っているが、それはエーレに限らずほとんどの人間がそうだ。誰しもが、己の持つ神力の特色以外の分野は幼子より稚拙な程度しか扱えない。らしい。
神力が欠片もない私にはよく分からない世界である。
そうこうしているうちに、どうやら納得のいく結果になったらしい。
適度に折り畳まれた手拭いが、べそりと頭に乗せられた。丁寧と呼ぶにはべしゃりと、乱暴と呼ぶにはそっと置かれた。氷よりも柔らかな冷気を纏った手拭いは、ゆっくりと額から熱を奪っていく。奪った熱は手拭いの中で消えているらしく、いつまで経っても温くはならない。神力は便利だし、エーレは器用だ。炎以外は得意じゃないと言いつつ、人並みかそれ以上にこなせてしまうので、彼は大体いつも忙しい。何でもそれなりにできる人間は、あちこちで重宝される。
それはともかく、適度な冷たさが心地よくてうとうとしてきた。
「…………これ、夢だったらどうしましょうね」
「安心しろ。一眠りしたら叩き起こしてやる。そうしたらどっちが夢か分かりやすいだろう」
「もう少し穏便な確認方法でお願いできます?」
「……俺が世間一般で優しいと呼ばれる方法でお前を起こしたら、そっちのほうが怖くないか?」
それもそうか。
納得して、小さく笑う。いつも文字通り叩き起こされてきたのだ。いつも通り、そうやって起こされるほうがいい。いつもと違う毎日は、もう充分だ。
いつもがいい。かつていつもだったいつもは、いつからか遙か遠く。かつて夢にさえ見なかったいつもが日常となって久しく、そうしてある日突然霧散した。
寝るまでいるつもりなのかか、寝台の端にどっかり座り込んだエーレの背中を眺める。脱走の疑いが晴れていない。信用がないし、信用されることをしてこなかった証左である。
「エーレ」
「何だ」
何を言おうとしたのかは自分でも分からない。ただ、呼び掛けたかっただけだ。応えがあると確かめたかっただけなのかもしれない。律儀に応えた返答に、少し考える。
「明日」
「ああ」
「………………綺麗な水が、飲みたいです」
そこの水差しに入っているような、神殿を満たしているような。
飲んでもお腹が痛くならない水が、飲みたい。
布団に埋もれながらぽそぽそ要望を出せば、微動だにしなかった背中が、発声により僅かに揺れた。
「当たり前だ」
そうか。当たり前らしい。
当たり前に、さらりと返ってきた言葉に何故だか酷く安堵した。
「薬を飲む必要があるからな」
「うっげ。錠剤でお願いします」
「粉だ」
「苦さの極み! ……寝よ」
寝て、明日飲まなければならない薬への気力を蓄えよう。
しょぼしょぼ目蓋を閉じれば、小さく寝台が揺れた。同時に聞こえてきた密やかな笑い声は、せせらぎのように心地いい。
「おやすみなさい、エーレ」
「ああ、おやすみマリヴェル」
また明日。
当たり前のように紡がれた言葉は、私が失って久しい音だった。それを、当たり前のように紡いだ人の寝台を奪って眠るのだ。今日の眠りは、きっと穏やかだと思うのである。

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