書き下ろしSS
後宮灼姫伝 ~妹の身代わりをしていたら、いつの間にか皇帝や将軍に寵愛されています~
赤目の兎はよく泣いた
「おやすみなさい、
囁く涙声が、確かに耳に届いていた。
小さく鼻を啜る音。衣擦れの音。声を殺して泣いているのだろうと気がついたが、枯れ果てたような身体では今や後ろを振り返る体力も、返事をする気力も湧いてはこなかった。
喜びと同時に胸に広がっていく罪悪感は、そう呼ばれたかっただろう女性のことを思い出すからだろうか。
閉じた目蓋の裏には、懐かしい泣き顔が見えていた。この手で育て上げた少女とよく似た顔つき、けれどずっと弱々しい……。
「わたくし、もうすぐ死ぬうううぅ」
――それが、
長い睫毛に縁取られた瞳。同じくらいに赤い色を宿した長い髪。
高い鼻筋に小さな唇、陶器のような肌。芸術品のような容姿を持つ少女の名は、
苛烈な性格の者が多いといわれる灼家だが、その中で思悦は異端だった。生まれつき病弱で、ほとんどの時間を部屋で寝たきりで過ごしていた。市井に出たこともなければ、灼家の広い屋敷内すら把握しきれていないのだ。
だが特別にか弱かったからこそ、彼女は周囲から慈しまれ、守られたともいえる。二十まで生きられないだろうと医者に匙を投げられた思悦を、彼女の両親は真綿で包むように大事に育てた。
「若晴、筆を持って。新しい遺書を書くことにしたのようぅ」
「お気を確かに、思悦様」
「お姉様が後宮に入ったのはわたくしのせいよ。お姉様はきっとわたくしを憎んでいる。だからお詫びに遺書を書くの。少ない財産でも、お姉様に使ってもらいたいのようぅ……」
涙をぽろぽろとこぼして、思悦は子どものように悲嘆する。泣けばまた熱が出るだろうに、思悦は自身の感情を制御する術を身につけていなかった。泣いては倒れるの繰り返しだ。
だが、今回ばかりは悲観的になるのも致し方のないことではあった。
思悦の年子の姉である桃花が入宮した。身体の弱い思悦の代わりに送り出されたも同然だった。
当代の皇帝は美しい赤髪の女を待ち望んでいたという。だが灼家ゆかりの年頃の中に、思悦以外に赤毛の女は居なかった。桃花も黒髪の持ち主で、醜女ではないものの美人とは言いがたい容姿をしていた。
ただでさえ後宮は、そこらを歩く侍女でさえも整った容姿の者ばかりなのだ。若晴には、皇帝が桃花に興味を示すとは思えなかったが、気を病んだ思悦の前で口にすることはできなかった。
――そんなある日のこと、思悦がこっそりと打ち明けてきた。
「じ、実はね、好きな人ができたの」
もじもじと袖で顔を覆いながらの告白に、若晴は仰天した。
乳母として護衛として、陰に日向に見守ってきた少女に、なんと思い人ができたという。だが、そもそも思悦には異性との出会いの機会もないはずだ。
「あ、相手はどこの誰です?」
聞いた名前は聞き覚えのないものだったが、すぐに察しがついた。落ち込む思悦のために、灼家の屋敷には先月から旅の一座が招かれていた。その中に年若く見目の整った男が居たのだ。
「どうして芸人なんかに!」
まさか容姿に惑わされたのかと嘆く若晴に、思悦はふふっと笑った。
「あの人ね、わたくしを可哀想って言わなかったのよ」
「……え?」
「自分でも単純だとは思うの。でも、それで好きになっちゃった!」
若晴はそれ以上、苦言を呈することができなかった。
病弱な思悦は可哀想で、痛ましい少女だった。若晴を含んだ周りの人間は、みなそう思っていた。
だが笑う思悦は、ただ恋をする少女の顔をしていた。初めて見る顔だった。
それからも思悦と男は密かに会った。若晴が何度か手引きしたこともある。
次第に膨れてくる腹を見れば、周りの人間も勘づいた。思悦は制止したが、貴族の姫に手を出した男は殺されてしまった。
思悦はそのときも嘆いたが、泣きはしなかった。すでに子を産む覚悟を決めていたのだ。後に二人の子をお腹に抱えていると分かっても、どちらも見捨てないと決めていた。
「わたくし、あの人との子どもを産みたいわ」
決意は固かった。その日から思悦は、少しずつ食べる量を増やした。身体が怠くても屋敷内をよく歩き回り、ときには日射しを浴びに庭に出た。出産のために体力をつける必要があったからだ。
そうしながら密かに医者を買収し、出産予定日を誤魔化すのも忘れなかった。双子の片一方を取り上げられ、殺させるわけにはいかなかったからだ。
本当の出産予定日の夕方、都合の良いことに思悦の親は使用人を連れて出かけていった。
若晴は清潔な布を集め、桶にお湯を入れた。気力を奮わせるために少量の酒を口に含むのも忘れなかった。何度か産婆を務めたことがあったが、その日だけは両手に震えを感じたからだ。
天井に吊るした力綱に掴まり、口に布を入れた思悦は命がけで初めての出産に臨んだ。
無事に産めたのは奇跡に近かっただろう。元気良く産声を上げる赤子たちを、ぐったりとしながらも思悦は愛おしげに見つめていた。伸ばした両手で、それぞれの小さな手を握っていた。
「この子は
もともと名前は決めていたという。
凶兆とされる双子を手元で育てることはできない。予定では若晴が妹を連れ出すはずだったが、姉のほうが泣き喚くため、そちらを若晴が育てることになった。
布にくるんだ赤子を抱く若晴を、思悦は食い入るように見ている。
「若晴。依花を、どうかよろしくね」
昔は泣いてばかりだった思悦の微笑は、萎んでいた蕾が花開いたかのように美しかった。
対して、若晴の腕の中には花から産み落とされたばかりの皺くちゃの小猿が居る。
美しい思悦にも髪が生えておらず、皺だらけの時代があった。若晴は生まれる前から思悦の世話をしてきた。これからも、片時も傍を離れるつもりはなかったのだ。
汗まみれの思悦はにっこりと笑う。
泣き虫だった姫は、いつの間にか母親の顔をしていたから。
「命に替えてもお守りいたします、思悦様」
大きな決意と共に。
そう答える若晴の腕の中で、赤子が小さな手を懸命に動かしていた。