書き下ろしSS

却聖女 4

手入れ

 他者の手が掴んだ私の足に、他者の手が掴んだ刃物が触れる。
 いつもなら即座に逃げ出しているだろう。だって足だ。目の次に足の負傷が一番困る。逃亡が不可能な状況であっても、思考だけは常に逃げる算段をつける為に動かす。
 しかし今の私は、逃亡どころかその為の思考すら鈍い。力を加えられた刃先同士がぶつかり、私の一部が断ち切れる様を、どこかぼんやりと見ていた。

 私を拾うという奇特な行動をした人が私を運び入れた場所は、神殿だった。
 神殿の人間が塵を拾って帰っていいのだろうかと思ったが、彼は神殿の長である神官長だという。聖女が現われるまで神殿の最高位となる人がよしとしたのなら、恐らくは大丈夫なのだろう。
 そんなことを考えている内に、いつの間にか彼はいなくなっていた。気がつけば、別の神官によって温かい水で全身を洗われ、その後は別の神官によって強い酒に似た匂いの、けれど酒とは違う液体を身体中にかけられて、雪のように真っ白な布であちこちぐるぐる巻きにされていた。
 温かい水はお湯と呼ぶのだと、私を洗浄した神官が言っていた。真っ白な布は包帯と呼ぶのだと、私にそれをぐるぐる巻いた別の神官が言っていた。
 包帯は、使用後回収されるのだろうか。もし捨てるのであればもらってもいいだろうか。お腹が空いた時用に取っておきたい。
 そんなことを考えている内に、いつの間にか神官長が戻ってきていた。
「君に任せっきりで申し訳ない」
「治療は僕の仕事です。いくら神官長と言えど譲りませんよ」
「君の仕事を奪える腕が私にもあればいいのだがね、カグマ」
 別の神官は、カグマと言うらしい。神官長は穏やかな表情を浮かべるけれど、カグマはずっと眉間に皺を寄せ、険しい顔をしている。けれど声は一度も荒げられていない。
 スラムの物は、大きな音や感情を露わにして攻撃してくることが多い。けれど中には、無表情、無言のままずっと殴り続けてくる物もいる。蹴って、踏み続けてくるのに、そんな物の目は損壊していく私の姿など写してはいない。その目が見ているのは自身の過去か、精神か。
 どちらも変わりはない。苛立ち、悔恨、嘆き、怒り、絶望。それのどれもに変わりはない。それらを肉体的な力に変えて他へぶつける。その行為を表現する言葉はそれだけで事足りるのだ。
 だから、無表情を浮かべていようと警戒しないでいい理由にはならない。それはよく分かっているのだが、カグマという者は私の損壊を修理するという奇妙な行動を行っているだけだ。
「癒術はまた後日行います。今は治療行為が負担になり保ちません。治療に耐えうる体力がありませんね、完全に。はっきり言って、意識を保って動いているのが異常ですよ、この子ども」
「……そうか」
 二人の視線が私を見た。とりあえず私も二人を見上げておく。カグマはさっきまで机の上の紙に何かを書き込んでいたペンの、くるりと回した持ち手で私を指した。
「僕の矜持に懸けて、外見は勿論中身も傷一つない状態に治してやるから覚悟しろ」
 恐らくこの人は、覚悟しろの意味を間違えて覚えたのだろう。神官長は教えてあげてほしい。
「では、今日の治療はこれで終いだろうか」
「そうですね。まあこの状態なら、食事も治療の一環と言えますが。後はひとまず、爪を整えるくらいですかね。手の爪はありませんが、足も伸びてるわ割れてるわで、かなり酷い状態ですし」
「そうか。ならばそれは私が引き受けよう」
 神官長も行動の意味を間違えて覚えたらしい。カグマは教えてあげてほしい。
「じゃあお願いします」
 駄目らしい。

 椅子に座る私の前の床にしゃがみ、私の足を持っている神官長は、許されないと思うのだ。神官長が許されないのではなく、私という存在全てが根底から許されざるものになったと思うのだ。
 だから止めたのに、神官長は何一つ気にした風もなく、変わらない穏やかな顔で私の汚らしい足の爪を、刃物で切っていく。
 小さな細い鋏が、神官長が力を入れる度に重なって、私の爪を私の身体から分離させていく。
 お湯というもので、白い泡の中で、石も小枝も混ざっていない掘り返したばかりの土のように柔らかな布で、身体中を洗浄してもらった。けれど私の爪は黒くて茶色くて、歪でささくれている。
「なんどでもいうけれど、あなたのきれいなてがよごれてしまうからさわらないほうがいいよ」
「私はそうは思わない。それにしても、君の爪がとても薄いのは、君の幼さ故だけが理由ではないのだろうね」
 穏やかな声が、少し陰りを見せたように思った。やっぱり私の爪が汚いからだろう。
 それなのに神官長は私の爪に刃物を重ねる行為をやめなかった。
 その結果、私の足の爪は丸くなった。布に当たっても引っかからないし、引っかかった拍子に割れも千切れもしない、不思議な爪になった。
 これが、この世界に存在して初めて、私に人の手が入った証だったのだと気付いたのは、随分後の話である。

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