書き下ろしSS
後宮灼姫伝 3 ~妹の身代わりをしていたら、いつの間にか皇帝や将軍に寵愛されています~
中秋節の夜
夜空には、大きな月が浮かんでいる。
どこも欠けていない、満ちた月――それを、純花は庭に佇んで見上げていた。
(お姉様……大丈夫なのかしら)
離れた地にいる姉のことを思うと、純花の瞳からは、自然と一筋の涙がこぼれ落ちていく。
おそらく温泉宮で、何かの事件が起こっている――雄の訪問によってそれを知った純花だが、以降は何も情報が入ってこない。
本当は今すぐ後宮を飛び出して、姉を追いかけたい。純花はそんな葛藤とずっと戦っていた。
「灼賢妃、どうされました?」
「っ!」
背後から声をかけられた純花は、慌てて涙を拭ってから振り向く。
うっかりしていたが、今は中秋節の宴の真っ最中である。そしてここは、貴妃・桜霞の住まいである春樹宮の庭であり――四阿ではたった今まで、彼女が二胡を奏でていたのだ。
「もしかして、泣いていらっしゃったのですか?」
眉宇を寄せる桜霞は、黒光りする美しい二胡を女官に預けてから近づいてくる。
「それは……樹貴妃の演奏が、あまりに素敵だったから」
「まぁ、ありがとうございます」
賛辞に対して礼を言う桜霞だが、やはり心配そうな顔のままである。
だが、嘘というわけではない。二胡の優れた奏者として知られる桜霞の演奏はすばらしいもので、純花は現在地さえ失念してしまったのだ。細い指が奏でる玲瓏たる二胡の音は、心の奥底まで響き渡るようだったから。
(わたくしが必死に修めた学も芸も、貴妃には遠く及ばないわね)
改めて実感した純花だが、別に負けた気分になったわけではない。桜霞に二胡があるように、純花には刺繍という武器がある。そんな風に前向きに考えられるようになったのは、依依との出会いのおかげだろう。
「今宵はあちこちの宮で、月見の宴が開かれているようね」
純花はそう話題を変えてみる。春樹宮に来る道のりで、集まっている妃嬪や女官を見かけていた。
「ええ、そうですわね。皇帝陛下が不在ですから、全体的にささやかな規模ではありますが……」
ようやく桜霞が微笑んでくれたので、純花はほっとした。
きっと後宮の隅々まで、彼女の二胡の音は届いていたのだろう。急に演奏が途切れてしまったので、傍に立つ林杏たちも少々残念そうな顔つきだ。
「それでは灼賢妃。わたしたちも月を愛でながら、月餅をいただきましょうか」
そう言いながら、桜霞が四阿を向く。布張りの卓子の上には、いくつもの器が運ばれてきていた。
桜霞が嬉しそうに説明していく。
「今回は様々な種類の月餅を用意してみました。まずこちらは王道に、こしあんや栗、蓮の実の餡を使ったものです。こちらは珍しい椰子の実の――」
「じゅ、樹貴妃」
純花は失礼と承知しつつ、その言葉を遮る。しかし桜霞は何やら勘違いしたようで、真剣な表情で頷いてみせた。
「ええ、無論分かっております。健啖家であらせられる灼賢妃ですもの、この量では不服ですわよね。ですので今も厨房を休まず稼働し、次々と月餅を生産して」
「そうじゃなくてっ。……わたくし、今日はあまりお腹が空いていないのよ」
「……えっ?」
桜霞は驚愕を露わにしている。
「もしや灼賢妃、断食をされてらっしゃる……?」
それもやはり、思った通りの反応であった。
純花は唇を尖らせる。
「断食はしてないわ。してないけれど、その……樹貴妃さえ良ければ、ひとつだけ月餅を選んで、半分こにして食べない? 残りの月餅は、女官のみんなに食べてもらいましょう。せっかくこんなに、月がきれいなんだから」
目をしばたたかせた桜霞が、やがて笑みを浮かべて頷いてみせる。
「それは、とても素敵ですね!」
――一年で最も美しい月が見下ろす夜。
桜霞に腕を取られ、純花は彼女と共に、とっておきのひとつを選ぶのだった。