書き下ろしSS

帝陛下のお世話係~女官暮らしが幸せすぎて後宮から出られません~ 3(完)

幸せの訪れ

 嫉妬と悪意が渦巻く後宮で育ち、死にかけたことも一度や二度ではない。それゆえに、自分の人生に心から安らげる日が来るとは思っていなかった。
 ふと目を開けるとまだ夜明け前で、寝所の中は暗い。離れたところにある小窓から、月明かりが差し込んでいるのが見えた。
「──蒼蓮(ソウレン)様?」
 腕の中で眠っていた凜風(リンファ)が目を覚ます。
 正式に妃になり同じ宮に住み始めてもうどれくらいか、誰かがいるのに眠れることも私にとっては驚きの一つだ。
「起こしてしまったか」
「もう起きる頃だったのかもしれませぬ」
「まだ夜明け前だ。もう少し……」
 長い黒髪に指を差し入れれば、指と指の間をさらりとそれが流れる。そのまま指を頬に沿わせたとき、異変に気づいた。
凜風(リンファ)、そなた熱くないか?」
「?」
 眠っていたせいか? いや、それにしてもいつもより熱い気がする。
 じっと目を凝らして観察するも、こちらを見つめ返す瞳はまったくいつも通りで特におかしいところはない。
 だが、触れると確かに少々熱いように思えた。
蒼蓮(ソウレン)様がこのように離してくれぬからですよ。それで……」
 凜風(リンファ)はくすりと笑ってそう言った。
 だが、このまま「そうか」となかったことにするのも躊躇(ためら)われる。
「夜が明けたら、彩林(ツァイリン)を呼ぶ。それまでは寝所から出るな」
彩林(ツァイリン)様を? そんな大げさな」
 風邪の一つも引いたことがない自分が、と凜風(リンファ)は思っているのだろう。
 確かに、池に入ろうが視察で体力を使おうが、これまで凜風(リンファ)が熱を出したことは一度もない。
 だからこそ気になった。
「よいな? そなたはじっとしていろ」
「わかりました」
 再びぎゅっと抱き締めると「大丈夫ですよ」というくぐもった声が胸元で聞こえる。どうか何事もなく、ただの風邪であってくれと思った。

 夜が明けてすぐ、護衛に彩林(ツァイリン)を呼びに行かせたが、私は「診察の邪魔だ」と寝所を追い出された。彩林(ツァイリン)は相手が皇族であっても職務に忠実で、相変わらず容赦ない。
 紫釉(シユ)陛下と朝餉(あさげ)を共にし、その後は執政宮へ向かうのが日課となって約六年、迎えに来た秀英(シュイン)を連れて宮へと戻る。
凜風(リンファ)が熱を? それはまた奇怪な……」
 かつて、妹のことを「(いのしし)よりも丈夫だ」と言った秀英(シュイン)は「信じられない」といった様子で目を丸くした。
「祈祷師でも呼びますか?」
「私があのようなものを信じるとでも?」
「ですよね」
 二人して急ぎ足で廊下を進み、寝所の前までやってくる。すると、そこには彩林(ツァイリン)と宮女の桜綾(ヨウリン)の姿があった。
 こちらに気づいた彼女たちが挨拶をしようとしたのを手で制し、私は一番に凜風(リンファ)の具合を尋ねる。
「熱は下がったか? 風邪か?」
蒼蓮(ソウレン)様、顔が怖いのでいったん落ち着いてください」
 冷めた目でそう言う彩林(ツァイリン)。少々呆れた口調だった。
「微熱程度で、しかもお元気で食欲もございます。病ではございません」
 きっぱりと否定されたことで幾分か安堵したものの、それでも理由がわからぬままでは落ち着かない。
「忙しくし過ぎただけか……? 病でないならなぜ熱が出る?」
 婚礼の後は何かと忙しく、紫釉(シユ)陛下の世話係の仕事も並行して行っていれば過労になるのも予想できる。
 今思えば、なぜもっと気遣ってやれなかったのだろうと悔やまれた。
 しかし彩林(ツァイリン)は、寝所の戸を開け「詳しい話は凜風(リンファ)様から聞いてください」と言う。患者の容態を説明するのは医者の役目だろう、と疑問だったが、秀英(シュイン)もなぜか「そういうことか」と納得した様子で中へ入ろうとはしなかった。
 よくわからぬが、とにかく今は凜風(リンファ)が無事であることを確かめたい。言われた通りに寝所へ入ると、寝台に座って何か書物に目を通す凜風(リンファ)の姿があった。
 私に気づいた凜風(リンファ)は、少し眉尻を下げて笑ってみせる。
 隣に座り、華奢な背に手を添えれば自然に頭を寄せてきた。
「具合はどうだ? 病ではないと聞いたが、疲れが出たのだろうか?」
「いえ、あの、こちらの書物によれば『よくあること』だそうです」
 どういう意味か分からずさらに尋ねようとしたら、その前に凜風(リンファ)が言った。
「子ができたようにございます」
「子……?」
「はい。熱があるのはそのせいでは、と」
 ちらりと上目遣いに見つめる凜風(リンファ)は、嬉しそうな顔で私の反応を待っている。
「子?」
「ええ、貴方様のお子にございます」
「子、とは……子なのか?」
「子は子でございますね」
 柄にもなく混乱し、同じ言葉を繰り返す。
 そうか……、と何度も意味のない感想を漏らした後、ようやく現状を正しく理解した私は咄嗟に凜風(リンファ)を抱き締めた。
「子がおるのか、そなたの腹に」
「ふふっ、だからそう申し上げておるではないですか」
 細い背から伝わるぬくもりが、どうしようもなく愛おしく感じられる。まともな一生など望めぬと諦めていたのに、こんなにも大切なものが確かに私の腕の中にあるのかと思ったら言いようのない喜びが込み上げた。
「そなたが私の子を産んでくれるのか……。それはよい」
「よいと思うてくださるのですね」
「あぁ、今、そう思えた」
 妃を持たぬと兄に宣言し、誰のことも好きにならぬつもりだった。子など考えたこともなかったが、自分でも不思議なほどに嬉しいと思えた。
「人とは、変わるものだな」
 亡き兄上が今の私を見たら、どう思うだろう?
 きっと満足げに笑って、共に喜んでくださるはずだ。
「生まれてくる子には、ありったけの幸福を与えてやりたい」
「ふふっ、そのようにできればいいですね」
 我が子に会えるのは、冬を越えて春になるらしい。新しい年がやってくるのが楽しみだと思えた。

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