書き下ろしSS
片田舎のおっさん、剣聖になる 9 ~ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件~
魔術師ルーシーは働かない
「……くぉ?」
とある日の午後。朝日はとっくに地平線の向こうから顔を出し、空の真上に昇り、更にはもう反対側の地平へと沈みかけている、そんな頃合い。
ベッドの上で死んだように眠っていたルーシー・ダイアモンドは、実に間抜けな一言とともに目を覚ました。
「おお……随分寝たのう……」
ルーシーの生活リズムは基本的に不規則だ。魔術の実験や検証に興が乗った時は、それこそ回復魔法を駆使して何日も徹夜したりする。毎日出来るだけ決まった時間に寝て、決まった時間に起きる。そんな生活とは、かなり昔に袂を別ってしまっていた。
ただそれでも、今日は頑張ったなとか、今日は怠けたなとか、そういう人並みの感想は持つ。
その観点から述べれば、今日のルーシーは寝過ぎていた。あり得ないほどに寝まくった。別段、前日に無茶をしたつもりはないのだが、それでも馬鹿みたいに眠っていた。故に漏れ出た感想である。
「……ハルウィ。ハルウィー。おるかー」
「はいはい、ただいま参ります」
朝食どころか昼食もすっ飛ばし、何なら夕食の準備が始まっていてもなんら不思議ではない。半日以上眠りこけていた主が扉の向こうへ呼びかけると、使用人であるハルウィはすぐさま反応を返した。
どこかに出かけるわけではないが、とりあえず起きて身支度はしよう。そう考えて彼女はハルウィの名を呼んだのだ。自分で身支度を整えるという選択肢は最初からなかった。
「おはようございます、ルーシー様」
「おはよう、という時間ではないがの。いや、よう寝たわ……」
「ええ、ぐっすりでしたね」
互いに半日振りの挨拶を交わし、ハルウィは言いながらルーシーの背後を陣取る。その動きをちらりと横目で捉えつつ、ルーシーは彼女に背を預けた。
「あら、随分と髪が絡まっておりますこと」
「今日は寝相が悪かったんじゃろうな……くぁ……」
欠伸を噛み殺しながら、ルーシーはハルウィの声に答える。
ルーシーは髪が長い。更に髪質的にはややウェーブがかかっており、端的に言えば髪どうしが絡みつきやすい。
ただしそれを、ルーシー自身が整えることはない。面倒くさいからだ。面倒なことは他人に任せておくに限る。そしてその面倒を一手に引き受けているのが、ハルウィという使用人であった。
「ルーシー様でしたら、このような髪も魔法で解けましょうに」
「お主が引退したら考えてやらんこともない」
「あらあら」
ハルウィが零した愚痴とも小言ともいえない言葉に、ルーシーは律義に返す。他人が聞けば傍若無人とも思える返答を受けたハルウィはしかし、まんざらでもない様子で微笑むにとどまった。
ルーシーは身の回りのことについて、基本的に魔術を行使しない。魔術を扱うのも厳密にいえばタダではないからだ。無論その度合いにもよるが、基本的に魔術の行使は多少なり疲れるものである。
なので、魔術を使わずとも出来る事柄に対しては使わない方がいい。そして、他人の力でなんとか出来るものは極力他人の力を使った方がいい。ルーシーが導き出した結論は、つまるところそれであった。
無論、ハルウィをはじめルーシーの下で働く者には相応の給金を払っているし、労働環境にも一応気を遣ってはいる。そして任せるべき相手も選ぶ。
だからこそルーシーは、ハルウィに対してほぼ全幅の信頼を寄せている。生活面はこやつに任せておけば間違いはないと。万が一間違った時は、それは自分の目が曇っていたと。彼女はそういう割り切り方をしていた。
「はい、解けましたよ。結いますか?」
「ん、任せる」
「畏まりました」
ハルウィは慣れた手つきで主人の髪を梳く。その手捌きはルーシーにとって、いっそ心地好い。更に自分で整えるより遥かに早く綺麗になる。
なればこそ、惜しい。この勝手知ったる使用人が、どれだけ長くともあと二十年も経てば、限界を迎えるであろうことが。
ルーシーは基本的に他人に興味がないし他人の感情も慮らないが、当然ながら長年身の回りの世話を任せている相手には、多少以上の情が湧く。
「ハルウィ。今日の夕飯は何がいいかのぅ」
「そうですねえ。暖かくなってきましたし、流通が細くなる前に魚料理でも味わっておきますか?」
「おお、それはいいな。あっさりめの味付けで頼むぞ」
「ええ、畏まりました」
主人の掴みどころのない発言から、しっかりと解を導く。ハルウィがずっとルーシーの傍仕えを任されているのにも、当然ながら明確な理由があった。
こうして生活面を安心して任せられるからこそ、日々の生活において余計な脳のリソースを割くこともなく、ルーシーは自分の仕事に没頭出来る。
今日はもう寝るだけで夕方に差し掛かってしまったし、明日はちょっとだけ頑張ってみるか。逆にだらだらと一日をふいにすることで、そういう発起にも繋がる。無論、褒められたやり方ではないが。
「はい、出来ました。それでは、夕食の準備に入りますね」
「うむ、頼んだ」
ハルウィの手によって紡がれた今日の髪型は、編み込み。
これでは二度寝は出来んな、と。ルーシーは綺麗に編み込まれた髪を触り、そう感じて。ハルウィが退室した扉を数瞬、眺めていた。
